カテゴリ:昔語り( 5 )

分教場の思い出

ブログ友の北海道のおかんさんのところで、ペチカの話しを見て
私も思い出したことがありました。
忘れないうちに書いておこう。

今から55、6年前の話しです。

私の実家は千葉県の中央部にある農村地帯です。
自然がいっぱいと言うかそれしかない所で…。
今も相変わらずの過疎地帯ですが。
当時はバスも自家用車もないころで、我が家から小学校までは4キロ
もっと遠い集落もありました。
6,7歳の足で通うのは大変なので小学校4年生まで村の分教場に通ったのです。
周囲は田んぼだらけで、平地を囲む低い山の裾に集落が点在していました。
分教場も山裾の高台にあって、木造の校舎は教室が3つと職員室と小遣い室
いつも白い割烹着を着ていた小遣いさんのおばさんと、
先生が2人だったように思います。3人だったかな?
校定は狭かったけど、ドッジボールができる程の広さで、
桜の木の下に砂場とブランコが二つ、それに鉄棒がありました。
周囲には桜が何本も植わっていて、春は花吹雪の下で遊びました。
春には蕗取り、秋には裏山できのこ狩り授業などもありました。
近くには由緒ある山寺があって、春と秋には山坂を切り通した沿道に市が立ちました。

私の集落には同級生がいなくて、朝は隣の兄ちゃん、姉ちゃんと通いましたが
帰りは下校時間が変わるので1人です。
田んぼの真ん中にはば2mくらいの浅い小川があって、橋の上にカバンを置いて、
裸足で川に入って、運動靴で小鮒を捕まえたり花を摘んだり毎日道草を食いました。
4歳下の妹はまだ赤ん坊で、母が背負い籠で田んぼに連れて行っていたし、
近所の兄ちゃんたちが帰ってくるまでは遊び相手がなかったし…
あの頃、自然相手の一人遊びが上手な子になったのでしょうね。

私の学年は15人で1クラス、下の学年は11人でその下の7,8人しかいない学年と複式でした。
教室の真ん中に、石炭で焚く大きなだるまストーブがありました。
当番が、毎朝、小使いのおばさんからバケツに石炭をもらってきて炊きます。
冬には金網で囲ったストーブの上にお弁当箱を並べて暖めました。
まだ給食がないころで、みんなアルマイトの弁当箱に弁当をいれて持参していました。
昼近くなると、ご飯に載せた海苔が湯気で湿って分解して、
教室中にいろんなおかずの匂いがぷんぷんしていましたっけ。
4年生のときに脱脂粉乳のミルクだけの給食が始まりました。

分教場に通うのは4年生までで、5年生からは自転車を買ってもらって本校に通いました。
自転車も大人用しかなくて、家の裏のゆるい勾配のある道で一人で練習
バランスを崩して下の用水路に落ちて、唇を怪我したこともありました。
腐りかけた木の杭の破片が口に刺さったんです。
女の子なのに、顔に怪我をするなんて!
大事に育ててきたのに!って、おばあちゃんに叱られました。

5年生はコッペパンとミルクの給食、6年のときに副食も付くようになったのに
中学校はまた弁当でがっかりしたものです。
50年以上も前のことなのに、懐かしい景色が生き生きと色鮮やかに蘇ります。

その後しばらくして1日2本のバスが通るようになって分教場は閉鎖、
地域の集会所になって、消防団やいろんな寄り合いに使われるようになりました。
お酒好きの祖父が集会で酔いつぶれてトラになり、近所の叔父さんが自転車で知らせてくれました。
母とリヤカーを引いて迎えに行ったことも何度かありました。
田んぼの真ん中の1本道は街灯もなくて、暗くて寒かった。
祖父は地域では珍しく旧制の中学校をでた人で、周囲から一目置かれていましたが、
大トラになって迷惑をかけている姿を見て、のん兵衛は嫌いだと思いました。

跡取り娘だった私が21で結婚して家を出ることになったとき、
病気で臥せっていた祖父が、「姉ちゃん、良かったのう」と言ってくれたのを思い出します。
農家に嫁の来てもないし、婿に来る人なんてなかなかいない頃でした。
好きな人に嫁にいかせてもらえる幸せを、許してくれた祖父でした。

集会所は手を入れて、今も桜の木もそのまま地域の集会場になっているそうです。
近くのお寺さんは徳川様ゆかりの寺だそうで、改修して立派になり、
波の伊八作の欄間が葛飾北斎の波間の富士の参考になったとかで有名になり
今では観光バスがやってくるそうです。
きのこ狩りをした山裾は広い駐車場になって、新に桜が植えられていました。

懐かしいことを思い出させてもらいました。おかんさんありがとう。
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by isozineko | 2014-03-03 12:38 | 昔語り | Trackback | Comments(6)

思い出~私を育てた一言

他所さんのブログから、中学時代の出来事を思い出しました。
コメントに書いただけでなく自分のところにも残さなくては…と思ったので追記しておきます。

何かを好きになったりその道に進んだりするきっかけが、教師の何気ない一言だったというのはままあることです。

エピソード1
 中学1年の図工の授業で、校庭の写生がありました。
私は大雑把に当たりをつけて色を塗るのが苦手で、エンピツで細かいデッサンをしてしまいました。
時間内で他の生徒は色を塗って仕上がっていたのに、私のはエンピツ画だけで色を塗る暇がない。
授業の目的からは外れていたのに、先生は私の画をほめてくださって、「そのままでいい。色を塗ってはもったいない」とおっしゃいました。
あれから図工の時間が好きになって、高校では芸術科目は美術を選択し、エンピツデッサンが得意でした。
美術全般に興味も出て、学生時代には美術館へもよく行きました。
今でも上京して暇ができると、上野の森に足が向きます。
思い起こすとそういうことってほかにもいろいろあります。
基本にあるのは、画一でなく1人1人を良く見て、特性を認め褒めて伸ばすということなんでしょうね。
子育てにも言えるし、日本校を引っ張る校長に求めることもそれかしら。

エピソード2
小学3、4年生の頃、学校で書いた詩が郡のコンクールで特選に入り地方新聞に掲載されたことがあって、国語が得意な小学生でした。
室生犀星や石川啄木の詩が好きで、6年生の時には昼休みに一人教室で万葉集の和歌などを諳んじたりするマセタ子どもでした。
特に頭が良い訳ではなかったけれど、地域では進学校だった高校に入りました。
前身は父や祖父が通った旧制の中学校で男子が多く、女子はクラスの3分の1程度でした。
高校1年のときの現代国語の先生は、声の優しい独身の男性教師でした。
先生が読む三好達治や萩原朔太郎の詩がステキで、近代詩が好きになったのはこのころです。
新学期間もないころの授業で、詩の解釈を習い、高村光太郎の詩『道程』の解釈が宿題に出されました。
  僕の前に道はない。僕の後ろに道はできる…というあの詩です。
次の授業のとき、先生は私の解釈をみんなの前で読み上げて、「この解釈はすばらしい。私のよりずっといい」というようなことをおっしゃいました。
うれしくて誇らしくて、この先生の授業が大好きになりました。
褒めてもらった評価を落としたくなくて、国語だけはけっこうがんばっていつもよい点を取りました。
あの頃、国語をしっかり勉強したことが、その後とても役に立ったと思います。

ブログは私の日記で、生きた証ですから、昔の出来事を思い出したときに書いておこうと思います。
現役時代は怖い教師だったと評判の姑が、晩年にいろいろな昔話を聞かせてくれました。
死期を悟った潜在意識のなせる業だったのかもしれません。
生徒とのエピソードや戦前戦中の教育界のこと、舅が教育事務所勤務時代の沖縄の教育活動など興味深い話がたくさんありました。
書き物の好きな姑で、家族の歴史も書きかけていましたから、ご自分の経験もぜひ書いて残してくださいとお願いしましたが、そんな余裕もないほどにあっけなく逝ってしまいました。
姑が残したたくさんの資料は、家族にとっても貴重な財産だったはずですが、全部、興味もなかった長男のところに運ばれ、自宅庭に設置した倉庫に詰め込まれました。
東京時代に私がせっせと書き送った子どもたちの成長記録の手紙の束もありました。
返して欲しいとお願いしましたが、そのまま長男宅に送られそれきりです。
どれも日の目も見ないまま、おそらく湿気でだめになっているでしょう。
姑が語った諸々も、今では小さな断片しか思い出せません。
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by isozineko | 2011-08-26 12:40 | 昔語り | Trackback | Comments(5)

赤がわらの民家解体 その後

赤がわらの民家解体がこのところの連休で急ピッチで進んだらしい
正規の仕事ではなくて、個人的な作業なのかもしれない
屋根瓦はきれいにはずされて、昨日は屋根の下の棟木の解体
大人が5人で木槌でトントンやってはクレーンで吊ってトラックに載せていた
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でこぼこがあるがクギは使っていないようだ
屋根の下の赤土はきれいに乾いてふるい落とされ
その下のユツン竹がはずされると棟木はきれいに角が残っていた
東の棟木は上部が虫に食われてぼろぼろ穴が開いているようだった
そのあたりから水漏れしたのかもしれないと思った

大雨が降るとよく床下浸水する家で
台風の前後に消防車が来たのも見ている
もっとぼろぼろにシロアリに食われていると思ったので意外
丁寧にはずして、今日は跡形もなく柱まで解体されていた
どこかに移築して、新しい家として生き返るのだろう
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by isozineko | 2010-05-12 20:23 | 昔語り | Trackback | Comments(2)

赤がわら家のその後

取り壊しが進んでいたあの赤がわらの家は
表側のかわらがはずされています
屋根は土台になる木の上に細い竹を敷き詰めて
その上に水の漏らない赤土を載せ
赤がわらを載せてさらに漆喰で固めています
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解体作業はとても手間がかかるようで、少しずつしか進んでいません
もう、かわらを焼く職人もいないのでとても貴重品です
この赤かわらは、どこかの新築の家に再利用されて
新しい赤がわら屋根に生まれ変わるのでしょう

昔は集落中が加勢して、山から竹を切り出して運んだそうです
この竹も於茂登の山の高いところにしか生えていません
雨が降ると、土も竹もぬれて工事ができません
屋根は天気のいい時期に大勢で一気に造ったのでしょう
今はもう、昔と同じ方法では作れないでしょうね
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by isozineko | 2010-04-05 20:44 | 昔語り | Trackback | Comments(0)

農作業必須アイテム蓑笠

さとうきびの刈入れや普段の畑の手入れに
昔は必須アイテムだったという蓑笠
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クバの若葉を熱処理して乾かし編みこむのだそうです
編む糸は海岸に生えているアダンの気根を裂いた繊維
これは伝統凧の尺を取るのにも大事な素材です
蓑笠は夏の暑い太陽の下の作業に自前で作る日陰
首に巻いて日の差す方向へ廻しながら使うそうで
軽くてとても涼しい風が通るのだそうです
雨が降ったときにはもう少し厚くて長いものがあります
1度作ると5~6年も使えるそうです
首の後ろの骨が人間の1番大事な骨で
これを日に干したら病気の元なので守るためにも大事なのだそうです
畑に出るお年寄りの中にはがまだ使っている方がいます
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使い終わったら手入れして軒に下げておくのです
サワサワと蓑を揺らす風の音に
明日の天気を占ったりもしたのでしょう
なんて雅やかな自然と一体の暮らしでしょう
今は昔の物語になりつつあります
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by isozineko | 2010-02-03 19:24 | 昔語り | Trackback | Comments(5)