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5.15沖縄復帰41年

5月15日は沖縄が日本に復帰してから41年目の記念日だった。
国道沿いの店で働いている友人から、今、平和行進が店の前を通ったよとメール。
うちの職場の旗が見えたから、私も行進の中にいるのかなと思ったみたい。
残念、仕事でパソコンに向かっていました。
復帰の年に結婚したから、41年前ってことになる。
10年ほど前に解消したけど、沖縄に住んでからでも30年余りになった。
結婚するまで石垣島なんてぜんぜん知らなかったし、沖縄のアメリカ支配だって知らなかった。
沖縄の人と結婚したおかげで、沖縄のことをいろいろ知ったし、
大事な人たちもできたし、子どもらにはふるさとになった。
私にとっても、石垣島は第2のふるさとよね。

5月15日、ラジオから大工哲弘さんの「沖縄を返せ」が何度となく流れていた。
♪沖縄を返せ 沖縄に返せ♪ のフレーズに胸が熱くなります。
現状は、今もあんまり変わってないんだなあと思う。

以下はネットで検索したこの歌の歴史です。

[歌詞]

固き土をやぶりて 民族の怒りに燃ゆる島 沖縄よ
我らと我らの祖先が 血と汗をもて 守り育てた 沖縄よ
我らは叫ぶ 沖縄よ 我らのものだ 沖縄は
沖縄を返せ 沖縄を返せ

この歌は1956年の9月に最初に発表され、その後の「沖縄返還運動」の盛り上がりのなかで、盛んに歌われたものです。
しかし、この歌の歌詞は、沖縄の歴史を知る者にとっては、「民族」や「祖先」とは誰のことであり、沖縄は「誰が誰に返すのものなのか?」ということに、疑問を抱かざるを得ないもので、この歌が世の中に発表された当初から、ウチナンチュー(沖縄の人々)がヤマトンチュー(いわゆる“内地”の人々)と共に、声を合わせて歌うには、どこか“居心地が悪い漠然とした違和感”を感じられていたのです。

そうした疑問は、1950~60年代の“本土”復帰運動の時にはまだ表立った問題とはならず、ウチナンチューの側から見た時のとして感じられた“違和感”に過ぎませんでした。同じく「沖縄を返せ」と声を合わせていたヤマトンチューの多くにとっては、「沖縄返還」も「反米・反安保闘争」の一環に過ぎず、決して「沖縄」に真正面から向き合っていなかった部分があったからかもしれません。実はそのことこそが、“違和感”の源であったわけですが…。
(中略)
しかし、1972年5月15日、沖縄県民が待ちに待った“本土”復帰が成し遂げられると、その“違和感”は現実の問題として、晴れて“本土”へと復帰した沖縄の人々の前に立ち塞がりました。
復帰前も復帰以前と変わらず、米軍は沖縄に駐留を続け、米軍が沖縄の人々から「銃剣とブルドーザー」で奪い去った土地が、沖縄の人々に返されることはなかったからです。
つまり、“沖縄返還”は米国政府と日本国政府の間の、書類上の“返還”なのであって、本当の意味での沖縄の人々への“返還”ではなかったんですね。

「沖縄を返せ」が再び光を浴びたのは、1990年代も半ばのことです。
八重山民謡の風雲児・大工哲弘が、「沖縄を返せ 沖縄を返せ」と歌うところをたった一文字、入れ替えて、「沖縄を返せ 沖縄へ返せ」と歌い始めたのです。
おりしも沖縄では、1995年から96年に掛けて立て続けに起きた米兵による少女暴行事件や、母子死亡事故などを契機に、米軍基地の縮小を求める運動の盛り上がりの中にありました。このたった一文字を入れ替えた「沖縄を返せ」は、筑紫哲也の「ニュース23」でも取り上げられて(1995年11月)、全国へ紹介されると共に、好むと好まざるとに関わらず、再び、沖縄の人々が本当の意味で沖縄を取り戻そうという運動のシンボルとしての意味を負わされるようになりました。
(以下略)

素人の素人による沖縄民謡ガイド 大工哲弘 から引用しました。
続きはこちらで。
houtoumusko.pepper.jp/sanshin/yaeyamaminyoguide99-1.htm

by isozineko | 2013-05-17 13:03 | 日記 | Trackback | Comments(2)

Commented by kattyan62 at 2013-05-17 21:00
沖縄の悲劇を小学校時代に教えられました。バンザイクリーフの映像、ひめゆりの塔など戦中の惨い話は忘れられません。
沖縄が県になった日のニュースも覚えています。ガラス越しで見えない苦労まで届きませんが、ドルから円、右側を走ってた車が左にってだけでも苦痛です。
Commented by isozineko at 2013-05-18 18:20 x
学生の頃、隣の4年生の経済学部では安保デモが盛んで、初等教育家の友人の中にもオルグに出かけたりする人もいました。
私は当時は安保より自分の恋の方に夢中でしたから、あんまり学生運動に関心をもてなかったです。
沖縄の苦悩も沖縄の人と結婚してから知りました。